2016年05月12日

サクラの咲く頃に

 うちのこ小話。サマさんのお話。


 
 淡い金髪の青年が一人、何気ない足取りで歩いていた。
 宿を取り荷物を置いた後は旅の道連れと別行動を取っている。淡白なようだが、二人にとってはさして珍しいことでもない。
 それよりも彼にとっては暇なことが問題だった。今も何か面白いものでもないかとぶらぶら歩いている。
 猫を見つけては餌付けを試み、食べ物屋を見たら適当に買い食いし、朽ちた家を見ては首を傾げ。そうこうしている内に町の外れまで来ていた。太陽はまだまだ沈む気配がない。
 町の外れ、それも街道沿いの出口でないためか、辺りには民家がまばらに建ち並ぶ程度。人通りも滅多にない。
「祭りでもやってればいいのになー」
 祭りの賑わいは好きだった。何より屋台がたくさん出るのがいい。祭りの屋台でもないと食べられないものというのは結構ある。
 どうして立っているのだかわからない杭に腰をかけ、眠そうな目はぼんやりと町を見渡していた。
 日差しは温かだ。風が強いわけでも別段寒いわけでもない、穏やかな春の日和。
「天気いいし、昼寝でもするかなー」
 空を仰ぎながら呟く青年の視界を、白色の小さい何かがよぎった。
「おー?」
 何気なく目で追う。動きにつられて首がゆっくりと動いていく。
 ひらひらと舞い踊りやがて地に落ちたそれは、ほんのりと桃色に染まった花びらだった。
 どこから来たのかと辺りを見回すサマの視界に一本の古木が目に入った。別段他にすることもなしと、ゆっくり立ち上がるとその木に歩み寄る。
 随分と年代を感じさせる木だった。高さは6mといったところか。
 幹の表面にはところどころに出っ張りがあり、ごつごつとした印象を与える。独特の木肌だ。
 しかし、何よりも目を引くのは満開の時期を迎えたその花だろう。伸ばした枝の一本一本に淡い桃色にも見える白い花びらが惜しげもなくついている。
 今まで見た他の花とは何か違う。美しいのにどこか寂しい、そんな花。
 風に吹かれると花びらが降り注いだ。音もなく降る花の雨。
「んー……?」
 青年は首を傾げた。
 ちり、とほんのわずかに何かが引っかかった。
 見た記憶がない花。しかし見たような気もする。


 零れ落ちた砂が語る。

 それはもう覚えているものがいない、出会いと別れの物語。


-サクラの咲く頃に-


 一人旅の途中でふらりと立ち寄った東方の町。
 通りにあった団子屋で買い求めた団子を頬張りつつ、ゆったりと町を見て回る。歩く人の姿はまばらで、少しばかり活気が足りない気がした。
 ふと、空から何かが降ってきた。よく見ればそれは花びらだ。
 ほのかに桃色に染まった白い花。その花を咲かせる木が両側にずらりと並び道を作っていた。
 この木々は愛されているのだろう。よく手入れをされている印象を受けた。
 足を止めて見入っている青年に声がかけられた。
「旅の方ですか?」
 問われた声に振り向けば、そこにはヒューリンの娘が立っていた。
 瞳は鳶色。三つ編みにした栗色の髪を前に垂らしている。年の頃は20か、それを超えていないかといったところ。
 日差しは温かいと思うが寒がりなのだろうか。ゆったりとした服の上からケープを羽織っている。
 娘は青年と同じように、頭上で咲き誇る花を見上げた。優しげな笑みを湛えて。
「この花はサクラっていうんですよ。珍しいでしょう?」
「おー、初めて見たー。きれいだなー」
 青年がこくりと頷くと娘は嬉しそうに笑った。
「サクラは私たちが一番愛する花ですから。でも、私が一番好きな種類のサクラはこれから咲くんですよ」
 言いながら遠くを指差す。つられて見れば並木道の向こうの広場に丸裸の木が立っていた。
 遠目ながら随分と年老いた印象を受ける古木だった。それに葉っぱが一枚もついていない。死んでいてもおかしくない木だと思い、青年は首を傾げる。
「あれ、咲くのかー?」
「咲きますよ。今咲いているものより咲き始めは遅いですけど。
あの枝いっぱいに白い花が咲くんです。すごくきれいですから、急ぎの旅でなければ一度見てみるといいですよ。
あのサクラが咲いた時、本当に春が来たんだなって思えてうれしくなります」
 そう言って微笑んだ彼女の顔が、わずかに翳った。
「私は……もう見られないかもしれませんけど」
「んー?」
 小さく呟いた言葉を聞き取れず、青年は首を傾げる。娘は首を振るとまた笑顔を浮かべた。
「なんでもないです。旅人さんはしばらくこの町に滞在されるんですか?」
「んー、そうだなー。あのサクラが咲いたところも見てみたいしなー」
 青年がのほほんと答えると娘はおずおずと切り出した。
「それでしたら、あの……無理にとは言わないんですけど……。
よろしければ旅の話を聞かせてもらえませんか? 私、この町から出たことがなくて……外の世界の話を知りたいんです」
「おー、いいぞー。旅の話をすればいいんだなー?」
 青年は二つ返事で頷いた。
 丁度良く道の脇にあったベンチに並んで腰をかける。何から話そうかと考えていると、不意に娘が咳き込んだ。少し長い咳だ。
 青年は彼女の背中をさすりながら首を傾げる。
「大丈夫かー?」
「……すみません。体の調子が悪いみたいですから、今日は失礼します……」
「んー、わかったー。無理するなー?」
「本当にすみません……せっかく話そうとして下さっていたのに……」
「別に気にしないぞー?」
 小首を傾げる青年に、娘はまた頭を下げた。そして顔を上げると不安そうに青年を見る。
「またこの場所に来ていただけますか? 気が向いた時で構いませんから……」
「おー、いいぞー。オレも特にすることがあるわけじゃないしなー」
 青年は呑気に笑う。
 会釈して立ち去りかけた娘がふと足を止め振り向いた。
「そういえば……名前をまだ聞いていませんでした。うかがってもいいですか?」
 先に名乗るものだという指摘を思いつきもせず、青年は正直に答える。
「オレはサマだぞー」
「サマさん、ですね。私はシアといいます。それではまたお会いしましょうね、サマさん」
 シアはどこか力無く微笑み、もう一度会釈した。柔らかい風がシアの髪を撫ぜた。

 ベンチに腰かける娘が一人。サクラ並木の下を行き交う人の姿はまばら。
 娘は遠目に見える裸のサクラを見ていた。悲しいような寂しいような、そんな顔で。
「何やってるんだー?」
 降ってきた声に視線をそちらに向け、声の主を認めたシアは微笑んだ。
「サマさん。来て下さったんですね」
「おー。昨日約束したしなー」
 頷いたサマはシアを見ながら首を傾げた。
「ずっとここにいたのかー?」
「そんなことないですよ。今来たところです」
 ゆったりと笑って否定する。
「とりあえず座って下さい。お話……聞かせていただけるんですよね?」
 おずおずと口にされた言葉にサマはおーと頷き、ベンチに腰をかけた。ベンチは軋む音もなく新たな客を受け入れる。
 横並びに座った二人。シアの期待の眼差しを受けて、サマは記憶に残っている話をしていった。
 ゆっくりとした調子で語られる話を、シアは目を見開いたり楽しげに笑ったりと表情を変えながら聞き入っていた。
「……それで、二人はどうなったんですか?」
「んー、仲直りしてたぞー。並んで肩を組んでたー」
「そうですか……良かったです」
 まるで我が事のように安堵し、シアは笑う。
 話の切れ目でシアは空を仰いだ。サクラの隙間から覗く空は高く、青い。
「……外には色んなものがあるんですね」
「おー、色々あって面白いぞー」
 にへっと笑いながら肯定すると、シアは寂しそうに笑った。
「いいな……私も見てみたい」
「見たいならシアも旅に出たらどうだー?」
 首を傾けるサマにシアは微苦笑を返した。
「私は……体が弱いですから。旅なんてとてもできません」
「んー、そうなのかー?」
「はい……」
 シアは笑っていたが、それは見方によっては泣きだしそうにも見える笑い方だった。
 ぽん。
 シアの頭の上に手が置かれた。手はそのまま撫でる動作へと移行する。
 シアは一瞬だけきょとんとした顔をすると、慌てて抗議した。
「こ、子ども扱いしないで下さい」
「んー、いやかー?」
 サマは不思議そうに首を傾げる。何故怒るのかわからないと言いたげなその仕草に、シアは逆に困惑しながら言う。
「それは、私だってもう子どもではないんですから……」
「そうかー。ごめんなー?」
 手をどけながら謝罪の言葉を口にしたものの、やはり前ではなく横に首を倒す。彼はもうこういう人なんだろうな、とシアは思った。
「シア!」
 低い男の声に二人の視線がそちらへ向かう。
 走ってきたのは老年の男だった。背が低くずんぐりした体形と蓄えられた長い髭からして恐らくはネヴァーフだろう。
 はらはらと花びらが舞い落ちるこの場所に似つかわしくないほど息を切らせる男にシアは微笑みかけた。
「こんにちは、ファブロさん。そんなに急いでどうされたんですか?」
「どうしたもこうしたもない! 外を出歩いてはいかんと言ったばかりじゃろう! 誰の目も届かないところで発作が起きたらどうするつもりじゃ!」
 肩を怒らせファブロは怒鳴る。シアはさっと表情を曇らせるとうなだれた。
「……ごめんなさい」
「気持ちはわからないでもないがの。ワシの心配も汲んで欲しい。ワシはお主を実の娘のように思っておるのじゃから」
「はい……」
 語調を緩めるファブロ。シアは大人しく頷いた。
 シアと男の会話をサマは黙って見守っていた。ふと男がサマを見る。
「ところでシア。その男は何者じゃ?」
「あ、はい。旅の方で、サマさんとおっしゃるんですよ。色々と旅のお話をしていただいていました」
「おー、話してたー」
 シアの言葉を受けて頷くサマ。ファブロは眉間にわずかな皺を寄せながら口を開いた。
「旅の者……か。ワシはファブロ。この子の……シアの面倒を見ておる」
「ファブロかー。よろしくなー?」
 のほほんと笑いながら手を差し出す。ファブロも手を出し握手をしたが、どこか憮然とした表情だった。
「…………」
 ファブロは何かを値踏みするようにサマを見上げていた。サマも首を傾げながら視線を返す。
 しばらくサマを見ていたファブロはちらりとシアを見た。
「……シアはそこで少し待っておれ。サマとやら、ちょっとこっちへ来い」
「はい」
「んー?」
 シアは頷き、サマは首を傾げる。サマは不思議そうな顔をしていたが、手招きされ、誘われるまま20mほど一緒に歩く。
 ファブロは一人サクラを見上げるシアの様子をちらちらと窺った後、サマに向き直った。
「お主、よもや下心があるわけではないじゃろうな」
 エクスマキナの青年はきょとんとした顔を返す。ファブロは構わず続けた。
「シアを笑わせてくれるのは多いに結構。じゃがの、シアはあの通り、綺麗な娘じゃ。もし下心があって近付いたのであれば……」
 物騒な空気がファブロから向けられる。下から見上げているにも関わらずこもる威圧感。
 しかしサマはけろりとしていた。
「下心ってなんだー?」
「……は?」
 呆気にとられたファブロの顔。サマは構わず続けた。相も変わらず眠そうな顔で。
「何を言いたいのかよくわからないけど、オレは旅の話を聞かせてただけだぞー?」
 サマの首がかくんと傾けられる。
 その真っ正直な言葉に毒気を抜かれたファブロは何かに疲れたような顔をして頬を掻いた。
「……ワシの思いすごしのようじゃの。良からぬことを考える頭もなさそうじゃ」
「んー?」
「なんでもないわい」
 ひとり言を聞き取れずに聞き返すサマを一蹴した。しかしその語調は今までよりは少し柔らかい。
 ファブロは今もサクラを見上げているシアに目をやった。穏やかでいてどこか悲しい目をしていた。視線をシアに向けたままファブロは言った。
「サマとやら。シアが咳き込んだことはなかったかの?」
「あったぞー。昨日はそれで帰ったー。体弱いらしいなー?」
「左様。シアは幼い頃から病気がちじゃった。
今はほれ、あのように笑っておるがの。発作が出た時の苦しみ様は見るに堪えん」
 苦虫を潰したような渋面。サマは静かに話を聞いていた。
「あの子はもう、長くはない。医者から余命わずかと告げられておるのよ」
「…………」
「奥のサクラは見たかの? シアは毎年あの花が咲くのを楽しみにしておったのじゃ。
せめてあのサクラが咲くまではと思っておるようじゃが……おそらくは体がもつまい」
 ファブロはうつむきゆっくりと首を振る。重い重いため息が老いたネヴァーフの口から漏れた。
 今だに裸のサクラの木。伸ばした枝にようやく顔を出し始めた花芽が開くのは5日先か、10日先か。
 一足先に咲いたサクラの花びらが風に舞う。
 ふとファブロがサマを見上げた。
「のう。お主、冒険者なら――」
 ファブロは何か言いかけたが、途中であきらめたようにまた首を振った。
「……いや、なんでもない。忘れてくれ」
「んー?」
「いいんじゃ。元よりあるかどうかもわからぬ話。シアにも中途半端な希望を抱かせて失望させたくないしの……」
 疲れとあきらめ。ファブロから読み取れるものはその二つ。
「ワシに出来ることは、せめてあの子に残された時間が平穏なものであるようにと、そう願うことだけじゃ」


 それからサマは毎日サクラ並木を訪れた。サマが行くとシアはいつもベンチに座ってサクラを眺めていた。
 特別なことは何もない。ただ会って、話をして、笑って、別れる。その繰り返し。
 時折咳こむことはあったが、シアは大丈夫ですと笑っていた。咳き込むのは一時的で、見かねるほどでもなかったのでサマも深くは気にしなかった。
 話の途中で雨が降り出した時にはシアの家にも招かれた。招かれたといっても、話をする場所がベンチから屋内になったというだけのことだったが。
 こぢんまりとした家。物が少なく、整えられていた。
 ……既に遺品整理をしているということだろうか。
 シア以外に人が暮らしている気配がなく、そのことを聞くと両親は他界していて今は一人で住んでいるんですと、寂しそうに笑った。ファブロさんに面倒を見ていただいているんですと、申し訳なさそうにも言っていた。
 寂しげだったり悲しげだったりすることはあるが、それでもシアは笑顔だった。
 タイムリミットの迫る体。それを自分でも自覚しているだろうに、シアは笑顔を絶やさなかった。
 その笑顔を、サマはじっと見つめていた。

 いつもと同じようにシアと話し、別れたサマは宿に戻っていた。
 使い魔である小猿のプルトが室内をちょろちょろしているのをのんびりと眺めている。
 ふと窓の外を見る。その方角にはあのサクラ並木、そしてその向こうにはシアの家があるはずだ。
「……んー……?」
 サマは小首を傾げた。
 いつの間にかシアと会うのが楽しみになっていた。宿に帰った後も今日はこんな話をしたなーと思い返している。そして早く明日にならないかと思う。
 たいていの人とは話せば楽しいし、また会えたらいいと思いはする。しかし、こんなに楽しみになることは珍しかった。
 それでいて彼女に触れるのにためらう自分がいた。撫でられたくないと言われたからではないとは、なんとなくわかっていた。
 触れたら壊れてしまいそうだった。彼女が、あるいは彼女との関係が。今のように当たり前の顔をして会えなくなることを恐れる気持ちが自分の中にあった。
 でもそれが何故だかわからない。後悔もできなくなるから後悔しない生き方をしようとは思っている。だが、それだけでは説明がつかない気がした。
 こんなにごちゃごちゃした感じは――少なくとも記憶にある限りでは――初めてだった。
 点と点が線でつながらなず、ばらばらに存在する。
 考えるのに向かない頭で考えてはみるが答えが出ない。
 よくわからないと思ったサマはすぐに考えるのをやめた。
 要するに、自分はシアと一緒にいたいと思っている。それは間違いない。
 なら、一緒にいればいい。単純なことだ。一緒にいたいからいる。
 終わりが来る、その時まで。


 その日は珍しくベンチにシアの姿がなかった。首を傾げたサマは、前日の別れ際に来るのが遅くなるかもしれないと告げられていたことを思い出す。
 座って待つことも考えたが、暇に耐えかねたサマはふらふらと歩き出した。
 ふと広場のサクラを見る。目をこらすといつの間にか蕾は随分と膨らみ、先端が白く染まってきている。
 この調子なら間もなく咲き始めることだろう。シアがずっと待ちわびていた、とっておきのサクラが。
「ずいぶん楽しみにしてたからなー。喜ぶだろうなー」
 開花の時を待ちわびるサクラを見上げるサマが浮かべるのは優しい微笑。
 咲きそうなことを報告したいところだが、肝心の相手がいない。仕方なしにサマは散歩に出かけた。
 そうして町中を歩いていたサマは思いがけないものを見た。
 サクラ並木よりは活気がある大通り。その道の端をとぼとぼと歩くシアの姿があった。
 シアに会うとは思っていなかったが、それ以上に沈んだ様子だったことが驚きだった。
 首を傾げたサマは声をかけることにした。
「シア、どうしたー?」
「あ……サマさん」
 うつむき加減に歩いていて気が付かなかったらしい。顔を上げてサマの姿を認めたシアは微笑んだが、どこか弱々しい。
 足を止めると力無く頭を下げた。
「今日は行けなくてすみませんでした」
「んー、別に気にしなくていいぞー?」
「そうですか……?」
 なおも不安そうな面持ちで小首を傾げたシアは、ほんのりと微笑んだ。
「それにしても、こんなところで会うなんて奇遇ですね。お散歩ですか?」
「おー。シアも散歩かー?」
 頷くサマとは対照的に、シアは首を振る。
「いえ、少し神殿に……」
「神殿ー?」
 サマは不思議そうな顔をした。
 神殿のことはよくわからないが、冒険者を支援しているところであるとサマは認識していた。神殿を頼れば食事や寝床も無料で手に入る。
 しかしシアは冒険とは無縁だし、食事や寝床をもらう必要もない……はずだ。だから何故神殿を訪ねたのかサマにはわからなかった。
「シアも神殿に用があることあるんだなー。病気が良くなるように祈ってもらったのかー?」
 率直に疑問を口にしたサマに、シアはわずかに表情を曇らせた。
「そうではなくてですね――」
 言葉が途切れた。訝るサマは彼女の変化に気付いた。
 シアの顔は真っ青だった。見開かれた目は焦点が合わず、体が小刻みに震えている。いや、大きく震えだした。寒さに凍えるように身を震わせ、自分の体を抱きしめている。
 不規則で浅く速い呼吸。そして。
「……っ!」
 げほげほと激しく咳き込んだ。それもただの咳ではない。見れば、口の前を抑える彼女の手の平が赤く染まっていた。手から溢れた赤いものがばたばたと地に落ちる。
 顔色、震え、呼吸の乱れ、そして咳。どこを取っても異常事態が起きていることは明白だ。
『今はほれ、あのように笑っておるがの。発作が出た時の苦しみ様は見るに堪えん』
 ファブロの言葉が蘇る。確かにこれは見るに堪えない光景だ。
「シアっ! 大丈夫か!?」
 顔を近づけて呼びかけるが、返事をする余裕もないらしい。返ってくるのは咳ばかりだ。その背中をさすってはみるものの和らぐ気配は微塵もない。
 なんとかしなければいけない。しかし自分にはどうしようもない。できること、すべきことはこの状況に対処できる人間を探すことだ。
 サマは辺りを見回すと、何事かと遠巻きに見ていた青年に叫んだ。
「医者はどこだっ!?」
「え……?」
 目の前の状況とサマの剣幕に青年はうろたえていた。呆然と立ち尽くす青年にもう一度叫ぶ。
「医者はどこだって聞いてるんだ!」
「こ、この道をずっと行ったところにある武器屋の向かいにある」
 勢いに押されて青年が方向を指し示しながら答える。それを聞くなりシアを抱き上げサマは走りだした。その間にもシアの喀血を伴う咳は止まらない。ケーブは無残な色に染まっていた。
 常人より腕力があることを差し引いたとて、あまりに軽いシアの体。体を支えるべき足もよく見れば恐ろしく細い。
 余計なことは考えるな。今は走ることだけを考えろ。
 サマは一心不乱に大地を蹴り続けた。
 足を動かせ。早く、早く医者のところへ――!

 走りながら、タイムリミットが急速に近付いてくる音を聞いた気がした。


「ひとまずは落ち着きましたが……今日か明日か……最悪の場合には、今夜が峠になるでしょう」
 処置を施した医者の言葉がそれだった。
 シアのかかりつけ医という金髪のエルダナーンは重いため息をつく。
「ここのところ安定していたのでもしかしたらと希望を抱いていたのですが……やはり無理なのでしょうね……」
 扉の向こうで眠っているだろうシア。その命は風に吹かれる灯火のように覚束ない。
 連絡を受けたファブロも居合わせていた。今は何かを堪えるように逞しい腕を握りしめている。
 重い空気が場を支配する。
 ファブロが、ぽつりと呟いた。
「あの噂が本当だったらの……」
「噂ー?」
 サマが首を傾げる。医者は痛ましい表情でファブロを見た。
「ファブロさん。気持ちはわかりますが……」
「噂ってなんだー?」
 再度問いかけるサマに医者は僅かに苦笑を交えながら答えた。
「この町の近くにある山はご存じですか? あの山の頂に、万病に効く花を咲かせるメティアと呼ばれる木が生えているという噂があるのです」
「じゃー、それがあればシアは助かるんじゃないのかー?」
 サマの言葉に、医者はゆっくりと首を振った。
「あの山は魔物の巣窟なのですよ。これまで山に入った者は何人もいましたが、誰一人として帰っては来ませんでした。
それ故に誰も確かめたことのない噂です。命がけで行ったところで無駄足になる可能性も十分にあります。
メティアの育つ環境は整っているとはいえ、そこにある確証はない……」
 うなだれるファブロと医者。話を聞いたサマは首を傾げた後に言った。
「んー……要するに、山に行って花を取ってくればいいんだなー?」
 簡単に言うサマに、ファブロは苛立ったように言葉を荒げた。
「話をよく聞かんか馬鹿者! あの山には恐ろしい魔獣がうじゃうじゃおるとも言われておって誰も帰って来たことがないんじゃ!
しかも本当にメティアがあるかどうかもわからん。むざむざ命を捨てに行くようなものじゃぞ!」
「でも、その花があったらシアは助かるんだろー?」
 のんびりと笑いながら告げられた言葉に、ファブロはう、うむ……と戸惑いながら頷いた。
 なら簡単だなーとサマは笑った。
「オレは誰も見捨てたくないからなー。助けられる可能性があるならオレは行くー」
 当たり前のような顔をしてサマは言った。それを、二人の男は信じられないものを見るような目で見ていた。
 メティアについて知りうる限りの情報を医者から得る。開花の時期は長いから見つかれば花は咲いているだろうとのことだった。
 情報を手に入れ早速行こうとするサマの耳にファブロの呟きが届いた。
「何故じゃ……何故行き縋りの者がそこまでできる」
 ファブロは困惑していた。
 ファブロ自身、冒険者に依頼することは考えたことがある。しかし危険性と不確実性、そしてそれに見合うだけの報酬を払えないと知ると冒険者たちは気の毒そうにしながらも敬遠していった。
 冒険者も慈善事業ではないし、身の安全を優先するのはやむを得ない。とはいえ、シアを救おうとしない彼らに内心では怒りさえ覚えていた。
 それなのに……目の前の青年はあっさり行くと言い出した。見返りを期待している様子もない。
 今まであたった冒険者と目の前の青年とのあまりの落差にファブロは戸惑っていた。
 サマは振り向くと、へらっと笑った。
「なんだろうなー? オレもよくわからないー」
 そしてサマは、言葉を失くす二人と扉の向こうのシアに、まるで散歩にでも行くような軽い調子で言った。
「じゃー、ちょーっと行ってくるなー?」


 件の山は町から30分程度の距離にあった。山は人が立ち入ることを拒むように高く聳え立っている。
『危険、立ち入り禁止』と書かれた色あせた看板を横目にサマは山に踏み入った。
 山は静かだった。動物の気配も鳥の鳴き声もしない。まださして登ってもいないというのに樹木の姿はまばらで岩肌の露出が目についた。死の山と形容されてもおかしくはない。
 しかしサマは気にした様子もなく、ただ山を見上げて呟いた。
「てっぺんまでけっこうかかりそうだなー」
 メティアは高山植物で、この山で言うと山頂辺りまでいかないと生息分布に入らないという話だ。つまり、どんどん登るしかない。
 ふと、鋭い鳴き声が空から降ってきた。見上げると遥か上空を鷲が旋回していた。獲物の来訪を告げるように鳴き声が続く。鷲の数は見る間に増えて無数の翼が空を覆った。
 戦いの予感にサマは剣を抜いていた。長剣は右手と左手に一本ずつ握られている。
 わずかに湾曲する、いささか短い刀身。カットラスと呼ばれるその剣は船上で使うことを想定されてそうした作りになっている。
 剣を構えて油断なく空を睨む。しかし、一際大きい鳴き声を上げると鷲達は飛び去った。力量の差を悟ったのだろう。
 敵の逃亡を確認し、構えを解く。わずかに気を緩めた、次の瞬間。
「!?」
 足に痛みを感じた。同時に体が痺れる感覚も。
 目を向けるといつの間にか這い上った蟻が噛みついていた。蟻と言ってもその大きさは拳ほどはある。
 すぐに斬りはらったサマが視線を上げると、先ほどの蟻をさらに大きくしたような蟻が群れをなして近付いてきていた。人間並の大きなサイズによらず俊敏な動きをする。
「でかい蟻だなー」
 呟きながら、向けられる明らかな敵意に再度剣を構える。
 夥しい数の巨大蟻が辺りを埋め尽くす。一定のグループが存在するらしく、距離を取りながらばらけている。80匹はいるだろうか。感情の読めない複眼の視線の全てがサマに注がれていた。
 サマは何の前触れもなく踏み込んだ。そして反応する隙を与えず薙ぎ払う。一太刀入れれば蟻は絶命した。感触からして、脅威になるほど強い相手ではない。しかし数が多い。
 蟻の群れが一斉に襲い掛かってくる。サマは二振りの剣だけで迎え撃った。
 飛びかかってきた蟻をかわし、噛みついてくる牙を剣でいなす。意思を持った一つの個体であるかのように間断なく攻撃は続いた。サマは受け流しながら機会を待つ。
 そしてついに、数の暴力を体現した攻撃の嵐に切れ目ができた。
 間合いは十分。全てが射程圏内。
 銀白色の瞳は冷静に戦場を眺める。
 構えを変えた。守りから攻めの姿勢へ転じる。
「一気に行くぞー」
 蟻にでも言ったのか、サマは呟くと剣を握る腕に力を込めた。
 一番手近な一団に斬りつける。間髪いれずに隣のグループへ。一撃一撃の重みは変わらないまま繰り出される素早い連撃。
 最後の一体が動きを止めた時、サマもその動きを止めた。青年の周囲には無数の蟻の屍が積み上げられていた。
 戦闘終了。サマは剣を握る力を緩めた。ぐるりと辺りを見回すとのほほんと呟く。
「このくらいならなんとかなるなー」
 肩を回し、少し首を傾げる。
「まだちょーっと体が動かない気もするけどなー」
 まーそのうち動くようになるだろーと呑気に呟くとまた歩き出した。

「本当に魔物がいっぱいいるなー」
 サマは言いながら野菜スティックを口に入れ、ポーションを飲んだ。消耗した体が少しだけ癒された。
 牛の巨体に羽が生えた奇妙なフォルムの魔物や大きな蟻の女王、エトセトラエトセトラ。
 今のところサマの命を脅かすほど強い魔物とは遭遇していないが、登るにつれて敵が強くなってきている印象がある。これは確かに、少し腕に覚えがある程度の冒険者には厳しいだろう。
 さらに林檎を齧りながら登ってきた道を振り向いた。麓は随分小さく見える。
 見渡せば細々と生えている植物の姿が変わってきていた。背の低い草木が多い。高地に入ってきたということだろう。
 しかし目的の木は見当たらない。ならばまだ登る必要がある。
「そろそろだと思うんだけどなー」
 するりと忍び寄ってきた蛇を無造作に斬り伏せサマは呟いた。
 ふと何か動く影を見た気がして、岩場に目をやった。
 ごろごろとした岩の陰から姿を見せたのはサマより一回り以上大きい鳥のような魔物だった。
 獅子の体に鷲の翼と頭。グリフォンと呼ばれる魔獣であるがサマは知らなかった。
 猛禽類の瞳がサマを見据える。一声鋭く鳴くと、グリフォンの嘴が大きく開かれた。
 嫌な予感から咄嗟に右に跳ぶとサマが立っていた場所をグリフォンのブレスが薙いだ。的を失った風はあてもなく渦巻いている。
「あれはちょーっと当たりたくないなー」
 つぶやきを一つ。そしてぴたりとサマの動きが止まった。銀白色の目は敵を見据えたまま。
 行動と体内の伝達パターンを切り替える。
 臨戦態勢。戦いに不用な機能は停止させて効率的に体が動くようにする。ただ敵を倒すことのみに意識を集中させる。
 しかし冷静さは失わない。指の一本一本、神経回路の一つ一つにまで感覚を研ぎ澄ます。
 そして深呼吸を一つ。準備完了。
「ん」
 短く呟く。駆け出したサマはグリフォンの元へと一気に肉薄した。その両手には二振りの長剣。
 迎え撃つように繰り出された爪をわずかに首をそらして避けると返す刃で脚を斬る。
 鷲頭の魔獣の甲高い悲鳴が、少なからぬダメージを与えたことを告げていた。
 この調子ならすぐに倒せそうだ。
 腕を振って剣についた魔獣の血を飛ばすと目前のグリフォンを見る。魔獣は怒り狂った瞳で身構えていた。
 剣を構えて踏み込もうとしたその時、不意に影が差し、サマは怪訝な顔をした。
 バサッ
 別方向から降ってきた、グリフォンの物とは違う翼の音に視線を向ける。
 戦闘の音を聞きつけて餌にありつこうとやってきたのだろうか。新手の魔物がこちらの様子を見ながら少し離れた岩場の上を旋回していた。
 前足がない奇妙なフォルム。大きな翼と鱗に覆われていて爬虫類を思わせるその姿は――
「ドラゴン!?」
 思わず驚きの声を上げた。口から出たのは魔物の中でも最強と謳われる生き物の名前。
 知識の浅いサマがそう思うのも無理はなかった。
 魔物の名前はワイバーン。よくドラゴンと間違われるが分類上は魔獣であり竜とは異なる。その強さもドラゴンに比べれば目劣りする。
 しかしサマはそのことを知らない。最強と目される魔物を前にしたと思ったサマの、一瞬の硬直。
 その隙を逃さず、ワイバーンはブレスを吐き出した。
「……っ!」
 回避しようとするが、反応が間に合わない。風がとっさに頭をかばったサマの腕を、体を切り裂いていく。
「く……」
 サマの顔がわずかに歪む。
 同じ攻撃を数度とくらったら危ないだろう。早く倒したいところだが目の前のグリフォンが邪魔でワイバーンの方に向かえない。
 こうなったら、早くこいつを倒して――
 考えるサマの眼前でグリフォンが飛び立った。
 逃げるのだろうか。
 訝りながら見ているとグリフォンが急旋回して降りてきた。勢いをつけて攻撃するつもりのようだ。
 傷を受けた痛みと、攻撃が当たらない苛立ちから切り札を切ったということだろうか。とはいえ、どれだけ速度がついていようと動きが直線的なら十分捌ける。
 二本の長剣を構えて攻撃に備える。銀白色の瞳は攻撃を繰り出してくるであろう爪の先を凝視していた。
 見る間に狭まっていく彼我の距離。来る。タイミングを読んだサマが剣の切っ先を動かしかけたその時。
 強い風に煽られグリフォンがわずかに体勢を崩し、直線軌道で落ちてくるはずだった爪の先が逸れた。
「な――」
 目測を外されたサマは攻撃を受け流せなかった。
 重力と体重による勢いが乗った重い攻撃。反射的に表面の組織を硬化させて凌ごうとしたが、勢いを殺しきれず体勢が崩れた。サマの膝が地面に着く。
「くそー、変な動きするなー」
 まずはグリフォンを仕留めなければ。立ち上がったそのままサマは力任せに剣を振りぬいた。
 キュイイィィィィィッ!
 甲高い悲鳴が再び響く。体を自身の血で染めながらも、魔獣はまだその活動を止めていない。
 2対1。魔獣つながりで仲間意識でもあるのか同士討ちをする気配はない。機械の自分を食べても美味しくないだろうになーとこっそり思う。
「修復機能、追いつかないだろうなー」
 それでもないよりはマシと、フル稼働させる。一度は断ち切られた組織がゆっくりと修復されていく。
 立て続けに繰り出されるワイバーンの尾、グリフォンの爪を剣でいなす。
 ワイバーンが近付いてくれたことは幸運だった。この距離なら一緒に狙える。
「一気にいくぞー」
 剣を握る腕に力を込める。まずはグリフォン。踏み込み間合いを詰めると右の太刀を浴びせる。そのままの勢いでワイバーンに接敵すると今度は左。
 二頭の魔獣が織りなす悲鳴のデュエット。
 今のが決定打になったのだろう。グリフォンが地に倒れた。一際大きく痙攣すると鷲頭の魔獣は二度と動かなくなった。
 しかし共闘したところで所詮は魔獣ということか、グリフォンが倒れてもワイバーンに動揺した様子はない。
 ワイバーンの尾が再度サマを狙う。それを二本の剣で受け止めた。
「それはなーんか嫌な感じがするから当たりたくないなー」
 力任せに押し返すとそのまま斬りつける。しかし傷が浅く、あまり効いている気がしない。
「ウロコ、厚そうだなー」
 サマはわずかに眉をひそめる。
 とはいえ攻撃が効かないという思いは向こうも同じのようだ。サマの方は少しずつではあるが傷が癒えていっている。
 何度もいなされた尾よりもブレスの方が有効と見たのか、ワイバーンは距離を取って再度ブレスを吹きかけた。
 二本の剣で武器は捌けても風を流すことはできない。またも避け損ねたサマの体を風が容赦なく切り刻む。
 傷を負いながらサマは静かに魔獣を見ていた。
「ソウルバスター」
 呟きと同時にワイバーンが悲鳴を上げた。
 見れば、サマが傷を受けた同じ場所に風に刻まれた跡がついていた。
 強引に相手と精神をリンクさせて同じ傷を与えるという、モンクに伝わる技だ。相手の攻撃が強ければ強いほど深いダメージを与えられる。ただ、相当な集中力を必要とするため一度使ったらしばらくは使えない。
 さらに逃げられたら厄介だと距離を詰めながら、サマはポーションを飲み干した。傷を癒してくれるありがたい薬とはいえ、お世辞にも美味しいとはいえない味に少しだけ眉をひそめる。
 近付いてくるなとばかりにワイバーンの尾が迫りくるが、動きが単調だ。サマはまた攻撃を流す。
「これで少しは効くといいんだけどなー」
 言いながら鱗の隙間を狙って剣を突き刺した。そして刃を捻る。ワイバーンの肉を抉る感触が手に伝わってきた。
 振り払うように身をよじる動きからして効果はあったようだ。
 しかしサマの表情には少し焦りの色があった。
 修復機能にトラブルが生じたのか、先ほどから傷の治りが悪い。
 それに、効果があったとはいえどれだけ削れたのかはわからない。敵も警戒してなかなか懐に潜りこませなくなるだろう。
 ぐ、と剣の柄を握り込む。ふと左腕の感触に違和感を覚えた。蓄積してきた疲労が出てきたのだろうか。
 わずかに逸れた、相手への注意。戦場では少しの油断が命取りになることを知らないわけではなかったのだが。
 身をくねらせるワイバーンの動きに、しまったと思った時には尾がサマを打ちすえた。
「……っは!」
 肺の空気が全て吐き出される。サマは咽こんだ。それと同時に全身を走る灼熱感。
「!?」
 じわじわと中から身を焼かれる感覚。尾にやられた腹部を見れば、表面組織が紫色に変色していた。見るからに毒に侵された状態だ。
 ワイバーンは尻尾の先から猛毒を分泌する。毒で獲物を弱らせて楽に狩りを行うのだ。
「……っ」
 足がふらついた。ただでさえ傷は浅くない状態に毒という追い打ち。
 毒消しは、持っていない。これまで毒を持った敵と対峙した経験が少なく、持っていなくてもなんとかなると楽観視していたのが仇になった。
 毒が回ってきたのか、サマの呼吸が速く、浅くなる。疲労とダメージも随分と蓄積されてきた。
 弱り切った餌を前にワイバーンが吼えた。
 死ぬ、だろうか。
 自分の死でありながらどこか客観的に見つめる自分がいる。
 恐れる気持ちはない。終わりは全てに訪れるものだ。ただそれがいつ、どんな形でもたらされるかが違うだけ。
 だが――
 不意に、シアの顔が浮かんだ。
 最後に見たのは血の咳を吐きながら痛みに耐える姿だった。
「…………」
 そのまま終わりにしたくない。
 シアにはいつものように笑っていて欲しい。笑顔が一番似合うから。
 旅をして色んなものを見せたい。あの町にない美味しい物だってたくさんある。
 シアが笑っていて、オレも一緒に笑って。
 オレは、ずっとは一緒にいられないけど。
 それでも、零れ落ちる直前まで残る記憶がシアの安らいだ笑顔であるように――。
 息を吐き切ると、サマの呼吸が止まった。だらりと腕が下がる。かろうじて剣を握っている程度の力のなさ。
 うつむいたサマに、抵抗を止めたと見たワイバーンが獲物に食らいつこうと大きく口を開いた。
「……な」
 サマの口からぽつりと声が漏れた。
 少しでも体を動かすと軋む音、そして激痛。毒は確実に体を蝕んでいく。
 痛い。確かに痛い。
 でも、それがなんだ。
 オレの痛みはどうでもいい。時間が経てば全部忘れられる。
 シアも死の境を歩いている。苦痛に耐えながら今も頑張っている。
 まだできることはある。なら最後まで全力でやらなければ。
 頭の中で何かが切り替わった。
「邪魔、するな」
 押し殺した低い声。
 顔を上げたサマの瞳は赤く輝いていた。戦いの中にあってもまだどこか穏やかだった、纏う空気が一変している。
 怒り。闘志。殺意。それらがないまぜになった重く鋭い空気。
 垂れ下った瞼は変わらない。しかしその目は眠そうなものではなく、獲物に狙いを定めて目を細める蛇のそれに似ている。
「どけ」
 剣を握る腕に力を込める。そしてそのまま振り切った。
 避ける暇など与えない。刃は吸い込まれるように亜竜の胴体に食い込んだ。
 肉を裂く骨を砕く全てを叩き壊す。
 理屈ではない技術ではない魔法でもなんでもない。
 あるのは純然たる――力。
 大人二人が抱えてもなお余るだろうワイバーンの巨躯が、一太刀で両断されていた。
 胴体を真っ二つに斬られたワイバーンが生きていられるはずもなく、それでも魔獣の矜持かわずかの間生体反応を示した後に絶命した。
 決着は、ついた。
「……っ」
 地面に片膝を着く。
 息を吐き出すと剣を支えにサマは立ちあがった。その顔にいつもの笑みはなく、焦燥にも似た表情があった。
 顔を上げ、行くべき道を見据える。銀白色の瞳で。
「……たぶん、もうすぐだ」
 重い体を引きずるようにして山の頂を目指す。ワイバーンの残した猛毒は少しずつ抜けてはいるが、まだ体を蝕んでいる。
 ぐらりと体が傾むきかけ、倒れる直前になんとか体勢を戻す。気を抜けばすぐ遠のきそうになる意識を繋ぎとめながらサマは歩いた。
 ワイバーンが山の主だったのか幸運に恵まれたのかわからないが、それから強い魔物と遭遇することもなくついに山頂に至った。
 開けた視界や眼下の景色に感慨を抱く間もなく、目的のものがないかと視線を巡らせる。
 むき出しの岩肌と乾いた地面。探し物をしていた目が一点に向けられた。
「……っ!」
 銀白色の瞳が見開かれる。
 高さ4mばかりのところで放射状に大きく水平に広がる枝。枝同士が絡み合いまるで枝のベッドのような様相をしている。聞いていた通りの風貌をした巨木。シアを救う希望の木。
 その木が、枯れていた。
 いつその命を終わらせたのか、風化が進んだ幹からは年単位の時間が窺えた。高山の風に曝され葉を失い乾ききった枝に命の息吹はない。
「なんで……」
 かすれた声が山頂に吹く強風に流れた。
 噂の通り、メティアは確かにあった。しかし……。
 枯れた木を前に、サマは呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 まだ一年など過ぎていないというのに、どう山を降りたのか記憶になかった。その間にもまた魔物を斬ったような気もするがどうでも良かった。
 傷だらけで歩く青年の姿にすれ違う人々が何事かと振り向いていたがそれも気に留めなかった。覚束ない足取りでただシアの元へ向かう。
「サマ!」
 部屋の前で老いたネヴァーフがサマを出迎えた。手負いのサマを見てファブロは狼狽していた。その後ろにいた医師も表情を険しくしている。
 そんな二人にサマはうなだれたまま謝罪の言葉を口にした。
「……悪い。メティアは……」
「今はいい! それよりも治療じゃ!」
「そうですよ、ひどい傷ではないですか! 早く手当てをしないと!」
 医師がサマの腕を掴む。しかしサマはそれを力なく振り払った。
「オレのことはいい。そのうち治る。
それより、シアに謝らないと……」
 ふらふらとした足取りで扉に近付くサマの肩をエルダナーンが掴んだ。彼の青い瞳は静かにサマを見ている。
「そんな怪我だらけのあなたを見たらシアさんが悲しむことがわかりませんか」
「…………」
「治療、させてもらいますからね」
 毅然とした声で告げる。沈黙を肯定と受け取り、医者はてきぱきと処置を始めた。

「サマさんが謝ることではないですよ」
 頭を下げるサマに向けられたシアの言葉はそれだった。
 ベッドから半身を起こしたまま、脇の椅子に座るサマへと微笑みかける。いつもと変わらない笑顔のはずなのにどこか翳りが見える気がした。
 ベッドと椅子と小さな机、後は窓がある程度の小さな病室。白い世界にシアはいた。
 シアの笑顔が申し訳なさそうなものに変わった。
「むしろ、私が謝らないといけないくらいです。危険を冒してまで採りに行って下さったなんて……」
「オレのことは別にいいー。もう痛みはほとんどないしなー」
 頭に包帯が巻かれていながらサマは言った。既にほとんど痛みが抜けているというのも事実だ。しかしシアは痛ましげな視線をサマに投げかけている。
 そんなシアに、サマは小首を傾げながら笑いかけた。
「大丈夫だから、なー? オレが勝手にやったことだし、そんなに気にするなー」
「ですが……」
 なおも食い下がるシアに、サマは視線を落として呟いた。
「収穫、なかったしなー……」
 メティアは枯れていた。どうしようもなかったことだが、それ故にやるせない。
 膝の上で握られた拳にそっと手が重ねられた。顔を上げると鳶色の瞳がサマを見つめていた。
「そのことはもういいんです。治らないことは最初から覚悟していたのですから。
それよりも……少し、お話しませんか?」
 弱々しい微笑み。サマはその笑顔を見つめながらゆっくりと頷いた。
 サマはベッドの端に腰をかけた。するとシアも体の向きを変えてサマの隣に座った。
 横並びに座る。それはサクラ並木の下で話をした時と同じ形。二人にとって馴染みつつある並び方。
 シアがくすりと笑った。
「こうして座るとあの場所にいるような気がしますね」
「そうだなー」
「サマさんには色んなお話を聞かせていただきました。とても楽しくて、夜になっても早く明日が来ないかと思っていました」
「おー、オレもそうだったー」
 サマの言葉に、サマさんもそうだったんですか?とシアはうれしそうに笑った。
「私は本当にうれしかったんですよ。余命がわずかなことを知ってもサマさんの接し方は変わらなかったことが。
ファブロさんも二ールさんも優しくして下さりましたけど……どこか、腫れものに触るような対応でしたから……」
「んー。二人なりに心配してたんだと思うぞー?」
 首を傾げるサマにシアの顔がわずかに歪んだ。
「心配していただけるのはありがたいことですけど……それは私が病人だと思い知らされることでもありますから……苦しかったです」
「そうかー」
 シアも大変だなーと頭に手を置きかけて、躊躇した。自分でも理由がわからず、サマは首を傾げる。
 春風が白いカーテンを揺らす。それにつられるようにシアは窓の外を見た。しかしこの窓からサクラは見えない。
「やっぱり……あのサクラを見るまで耐えることはできませんでしたね……」
「シアはまだ生きてるだろー? もう死ぬようなこと言うなー」
「自分の体のことですから、私が一番よくわかります。笑ってはいますけど……今も痛いんですよ?」
 今にも泣きそうな痛ましい笑顔だった。一度も弱音を吐かなかったシアが苦しみを訴えた。そこまで限界が近づいているというのか。
 後少し。あのサクラが咲くまで、本当に後少しだろうに。シアの体はその少しでさえもうもたない。
「サマさん。お願いがあるんですけど、いいですか?」
 おずおずと見上げてくるシアに頷くと、シアはお願いを口にした。
「サクラを見たら、少しでいいですから私のことを思い出して下さい。その花を誰よりも愛し、待っていた娘がいたと」
「…………」
 それは本当にささやかな願いだった。
 しかしサマは頷きを返せなかった。
 またサクラが咲くのは1年先だろう。その頃にはもう今の記憶を失っている。交わしたところで反故になるとわかっている約束だ。
 嘘はつきたくない。でも露骨に拒むこともできない。そうしてサマは黙り込んだ。
 時計の秒針の音がいやに耳につく。
 沈黙を破ったのはシアの方だった。返事をしないサマに、寂しそうに微笑みかける。
「……すみません。行きずりの病人にそんなこと言われても……迷惑でしたよね」
 シーツの裾をわずかに握りしめながらシアは言った。
「大丈夫ですから気にしないで……今の言葉は忘れて下さい」
「……っ」
 サマの顔が歪んだ。何かを思う間などなく体が動いていた。
 シアが息を飲む音が耳元で聞こえる。
「サマ……さん?」
 シアはわずかに困惑したようにサマの名を呼ぶ。シアからはサマの顔が見えない。
 その華奢な体を壊してしまいそうなほど強く抱きしめた。悲しいほどに肩が細い。
 腕の中の温かい感触。温もりは今生きている証。――いずれ失われるもの。
「ごめん……ごめんな」
 救えないこと、ささやかな約束も交わせないこと、忘れてしまうこと。全てを込めてサマは謝罪の言葉を繰り返した。
 突然のことに戸惑っていたシアが、ふと笑みをこぼした。
「サマさんは優しい人ですね」
 サマの肩に手を添えて頭を預ける。シアは微笑みながら囁いた。
「最期にサマさんに会えて良かった」


 穏やかに晴れた次の日の朝。
 シアさんは息を引き取りましたと医者が告げた。
 部屋の外で待たされていたサマが昨日と同じ部屋に踏み入れると、静かな空気が彼を迎え入れた。
 白いベッドの上にシアが横たわっていた。眠っているようにしか見えない。声をかければすぐにでも目を覚ましそうだ。
 静かに移動するとベッドの脇に腰をかけた。
 頬を撫でる。白い肌は冷たかった。抱きしめた時のあの温もりは欠片も残されていない。
 シアはもう笑わない。語ることもない。ただ静かに眠り続ける。
 それが死。生命の終わり。
「……」
 シアの顔を見つめていたサマが動いた。
 目覚めぬ彼女に顔を近付ける。それこそ目と鼻の先で。
「――……」
 サマは口の中で小さく何か呟いた。
 謝罪か、それとも全く別の言葉なのか。
 サマの言葉を聞いたのは物言わぬシアだけだった。


 サマが初めて抱いた知らない感情。
 その感情の名前を知る前に終わってしまった。


 いつものベンチにサマは座っていた。何をするでもなく座り続けていた。
 待ち人は来ないというのに。
 並木を成していたサクラは散りつつあった。最後の花吹雪を降らせる木々をぼんやりと見上げる。
 ぽつり、と顔に水滴が当たった。ゆっくりと辺りを見回す間に空が泣きだした。雨足は見る間に強まっていく。
 往来の人々が急ぎ足で帰路につく中、しかしサマはベンチに腰掛けたまま動かなかった。
 雨は容赦なく打ち付ける。
「……あー」
 思い出したように呟く。そして黒い雲が低く垂れこめる天をゆっくりと仰いだ。
「冷たいなー」
 水滴が頬を伝う。
 それが涙であることはあり得ない。この機械の体に、涙を流す機能はない。
 しかし。
 目から流れる雨粒はあたかもサマが泣いているように見せた。
 空はまだ泣き止まない。

 シアが帰らぬ人となった次の日。
 シアが一番好きだと言っていたサクラが、ついに花開いた。
 なるほど、彼女が愛した理由がわかる気がする。先日まで咲いていた並木のサクラと比べると華やかさには少し劣る。しかし慎ましくも凛と咲き誇るサクラはシアのようにも思えた。
「……」
 サマは頭上で花を咲かせるサクラを見上げていた。
 本当なら、このサクラを同じように見上げるシアの姿があるはずだった。
 ふと、誰かに呼ばれた気がして振り向いた。
 そこには両手を広げて、風に舞う花びらと一緒に戯れるシアの姿があった。
 サマの目が見開かれる。
 笑う彼女の幻が見えたのは一瞬で。
 瞬きをした次の瞬間には彼女の姿はかき消えていた。ただサクラだけが舞い遊ぶ。
「……っ」
 サマは胸を押さえた。一歩、二歩と後ずさるとサクラの幹が背に当たった。そのままずるりとしゃがみこむ。
 痛い。胸が締め付けられるように痛い。
「なんだこれ……」
 わけもわからずうずくまる。
 そんなサマにサクラの花びらは静かに降り続けた。

 ひっそりとしたシアの葬儀を見届けたサマはふらりと町を後にした。元より根無し草。シアという楔を失ってなお留まる理由はなかった。
 そして、記憶の砂はさらさらと零れていく。
 シアの名前。彼女の言葉、仕草、声、笑顔。
 少しずつ抉り取られていく思い出。手を伸ばしたところで砂は溜められない。わかっているはずなのに足掻く。そして無駄だと思い知る。
 気にしなければ、考えなければいい。言い聞かせても割り切れない。
 そうこうする間に一年が過ぎた、シアの命日。
 いつものように目覚めたサマは、何を忘れたかすらわからなくなっていた。
 涙が流せる体なら流れただろうか。
 それとも、何に泣くのかすらわからないからやはり泣かないのだろうか。
 答えは出ない。




「……、……?」
 どこか遠くで声がする。
「サマ?」
 声は思ったより近くで発せられたものらしい。
 サマは数回まばたきをすると、にへーっと笑いながら声の主を見た。
「おー、クリムー。どうかしたのかー?」
 言われた青年はやれやれといった様子でため息をつく。
「それは私の台詞です。どこか様子がおかしい気がしたんですが?」
「んー、そうかー?」
 のほほんと首を傾げるサマに、クリムは「思い過ごしでしたかねぇ」と小さく呟いた。
 銀髪のエルダナーンはそのままぐるりと視線を巡らせる。そして空を仰ぐと、淡い桃色の花を咲かせる木に目をとめた。
「サクラですか。珍しいですねぇ」
「サクラー?」
 オウム返しの問いかけに、クリムは頷いた。
「東方で見られる花ですよ。それ以外の場所では滅多に見られないと聞いていましたが」
「へー。たぶん初めて見たー」
「なんです、たぶんって」
「たぶんはたぶんー」
 わずかに眉を寄せるクリムにサマは軽く答える。濁された答えにクリムはまぁいいですと気にしないことにしたようだ。
 ふとサマが首を傾げた。
「そういえばクリム、図書館を探すって言ってなかったかー? そっちはどうしたんだー?」
「えぇ、探しましたけど。この町には図書館がないようです」
 クリムは残念そうに首を振る。
「もう少し先の街には大きな図書館があるらしいですから、そちらに期待といったところですかね」
「おー、そうかー」
「私は散策するつもりですけど、サマはどうするんです?」
「んー。暇だからオレも行くー」
 へらっと笑うサマにクリムは来ても面白いことはないと思いますけどねぇと淡白に呟いた。
 すたすたと歩き出したクリム。その後を追いかけたサマはふと振り向いた。サクラが長い腕を伸ばしている。先ほど感じた引っかかる感じはもうない。サマは小さく首を傾げた。
「何をしているんです、サマ。置いていきますよ」
「んー、今行くー」
 ゆったりと答えると、もう歩き出しているエルダナーンの青年を追った。

 彼は今日も笑う。優しくも残酷な忘却に包まれて。



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posted by のみち at 22:10| Comment(0) | アリアンロッド ヘラルド | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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